解は水色

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§1 2002年8月17日 13:30

 「え?崖崩れで旅館が潰された?」助手席のトムが携帯電話の相手に向かって素っ頓狂な声をあげた。運転しているゴンは当然として、私の左隣で談笑していた2人の女性もその声をきっかけに沈黙してしまった。トムは更に電話の相手と会話を続けている。
「はい……はい…わかりました。返金の方は……はい、そのようにお願いします。……失礼します」
通話スイッチを切ったトムに、私は訊いた。
「どうしたんだ」
「僕たちが泊まる予定のホテルが突然の崖崩れで半壊したそうです」
それを聞いて私の横の女性陣がざわめいた。運転するゴンは顔色一つ変えない。トムはさらに言葉を続ける。
「今の電話は、命からがら避難したホテルの客室担当者からです。早朝のことなので、かなり犠牲者がいるようですが、正確な状況はつかめないと。もちろん営業は即中断で、今大急ぎで今日予約している客に連絡をしているそうです」
端正な容貌のトムがやや慌て気味に状況を説明する。少し落ち着きに欠ける男だ。

トム…フルネームは外村喬。東京の有名私大の法学部に一浪で入学、卒業後すぐに『キッズ・ファクトリー』に入社し、私の部門に配属された。明るい性格でフットワークが軽いが、商品開発に必要な創造性を備えているかどうかは疑問である。営業などが向いているのではないか。ただ、180cmを超える身長でスリムな身体、さらに容貌にも恵まれている彼は、明るい性格と相まって女子社員からの人気は高い。父親は相当な資産家であるが、彼が幼いときに両親は離婚し、母親と2人で暮らしていると聞いている。

ひとしきりトムの説明が終わった後、後部座席の左端に座っているミカが、私の方を見ずに、しかし明らかに私に向かって話しかけてきた。

ミカ…フルネームは鈴田実加。有名な国立の女子大の数学科を卒業し、入社5年目。
客観的にはさほどの美人ではないかも知れないが、小柄で清楚な雰囲気。実は、彼女のことを考えると私は複雑な気持ちになる。彼女が入社1年目の頃(当時は別々の部署)、私から交際を申し込み、しばらくは休日の度にデートを重ねていたが、そのような関係になってから僅か3ヶ月で、向こうから別れを切り出してきた。詳しい理由は語られなかったし、こちらも追求はしなかった。他に恋人がいるのかどうかは定かではない。その後、極力社内では顔を合わせないように勤めていたが、昨年の4月、彼女が突然商品開発部のベビー服部門に配属されてきたことには驚いた。別れから2年以上経過しているので、未練のようなものは皆無だが、それでも心中穏やかではない。片や向こうは、何もなかったかのように平然と振る舞っている。このような状況では特に女性の方が強いのだろうか。仕事面ではすこぶる優秀である。時に斬新なアイデアを提案することに加え、処理能力にも秀でていて、総合的には私の部署では一番であろう。実家で家族と共に住んでいる。

「これって私たちが泊まるところが無くなったということでしょう。これからどうするんですか」
私に妙案があるはずもなかった。半ば義務感で
「う〜ん、どこか他の旅館でも探そうか」
と答えた。すると、ミカは即座に反論した。
「これほどの観光地でしかも土日でしょう。当日の駆け込みで空きがあるようなホテルや旅館は無いんじゃないかな」
もちろん、私も同じことを考えていたのだ。言葉に詰まった矢先、助手席のトムが思いがけないことを言いだした。
「宿泊先の心当たりならありますよ。この近くに僕の親戚が経営しているペンションがあるんです」
一同から「へえ」「ほう」というざわめき。しかし、私には気がかりなことが一つあったので、聞き返してみた。
「これほどの観光地のペンションだろ。空きがあるとは思えないんだが」
「きっと大丈夫ですよ。ここから近いと言っても町の中心部からは大分離れていますし、経営者も全く宣伝しようとはしないんです。ですから客がいる方が珍しいんじゃないんですかね」
「そんなんじゃあ経営が成り立たないだろう」
「本業は画家なんです。その方面ではそこそこ名が知られているので、食べるには困らないようです。料理好きなので、ペンション経営は道楽のようなものだそうです。自然の多い場所にアトリエを確保するという目的もあるようです」
突然、今まで黙っていたルイが、私の隣の席から声を発した。
「優雅な生活で素敵じゃないですか。外村さんのご親戚の方なら、きっと素晴らしい絵を描かれるのでしょうね」

彼女が助手席のトムの方へ乗り出すように話しかけたはずみに,ルイの右胸の膨らみが私の左腕を掠ったようで,僕は複雑な気分にさせられる.

トムは直接その質問には答えず、
「小さいけれど小綺麗で雰囲気のいいペンションだよ」
と気のない様子で返事をした後、携帯のボタンを押した。短く事務的な交渉の後、結局我々はトムの親戚氏の経営するペンションに向かうことになったのである。

ルイ…フルネームは水田瑠衣。東京の私立の女子大の法学部を卒業し、入社1年目。
入社後、瞬く間に会社全体から注目を集めた。理由の1つは明るい性格で人当たりがよいこと。そして最大の理由はおそらくは100人中98人は賞賛するであろう美貌の持ち主であること。加えて、大学時代に体操をやっていたこともあり、身長170cm台のスレンダー(某サイト運営者とは無関係)な肢体は程良く鍛えられている。仕事面でも、そこそこ優秀で、新入社員としては頼りになる。ふとしたことから、彼女とトムすなわち外村喬が大学時代から現在に至るまで交際を続けていることを知り、非常に驚かされた。全く大学が違うのだが、所属ゼミの専門分野に共通点があり、ゼミ間の交流を通じて知り合ったとのこと。出身は九州で、ワンルームマンションに一人暮らし。

 この後、次のセクション開始の時間帯まで、殺人事件に関連する出来事が起こらなかったことを保証する。

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