政治家をとことん賛美する

§0 プロローグ

 おそらくいつの時代でも、政治家は風刺の対象になっている。のみならず、時にはとてつもない“巨悪”の頭領であるかの様な言われ方をする。特に、贈収賄などのいわゆる“汚職”や、秘書給与ピンハネなどの疑惑が取り沙汰されるたびに、政治家攻撃の声はますます高まるようである。 最近の日本に限定しても、新聞やニュース番組等のマスメディアは日々当たり前のように政治家や閣僚批判を繰り返しているように思える。 個人的には少し度が過ぎているように思う。そんなに政治家は悪いのか。疑問の余地があるように思えてならない。ひたすら国民のために真面目に精進されている方々も多いはず(と思いたい)。だとすれば、“政治家⇒悪”は誤りであり、数学的には“政治家∩悪≠空集合”が示せるのみである。

 さて、私はこのほど、2つの根拠から「政治家に悪人は存在せず、むしろ他の職業に無い優れた資質をもつ集団である」ことを論証することに成功した。その根拠は§1と§2でそれぞれ1つずつ述べることにする。おそらく論理には穴がないはずだ。それは、「太陽が毎日西から昇るならば、7は偶数である」という命題が真であるのと同様である。
 とは言え、世間の多くの方々の常識を覆す結論だけに、以下の私の論理に納得できない方も多いに違いない。それは仕方のないことだと思っている。人間は必ずしも論理的な納得では動かず、説明のつけにくい感情で判断を下すものだからである。仮に、全ての人間が論理的に物事を判断しているならば、私はもっと世の中の女性にモテているはずである。なぜなら、自分を愛する女性をとことん大切にする男は、世界広しといえども、この文章を書いている部屋の中には私一人しかいないからである。また、あらゆる人間が合理的に動いているならば、そもそも私自身がこんな文章を書くような非生産的な活動をすることもないのである。というわけで、以下の文章ははっきり言って無意味なのが、それでも宜しければ、この後もお付き合い頂きたい。

 なお、お気づきの方も少なくないと思うが、この文章のタイトルは、現役のお茶の水女子大学教授である哲学者土屋賢二氏(1944〜)の著作『われ笑う、ゆえにわれあり』(文春文庫)に収録されているエッセイ『女性をとことん賛美する』のもじりである。文体も少し意識して真似ている。土屋氏の著作は、どれをとっても良質の笑いがふんだんに盛り込まれている。『われ笑う、ゆえにわれあり』の他に、『われ大いに笑う、ゆえにわれあり』(文春文庫)、『哲学者かく笑えり』(講談社文庫)も読んだが、どれも楽しめた。別に私は土屋氏の回し者ではない(そもそも面識は無い)。純粋に面白いと思ったから宣伝したまでである。もし土屋氏が何かのはずみでこのwebサイトを目にされたならば、感謝の気持ちをこめて、私に女子大生を5人紹介すべきである。

§1 政治家は日々余人にはできない判断を下している
プロ野球と同じくらい
 私は数学が大好きなのだが、その理由の一つは、解答が論理的に正しいか否かを(ごく一部の例外を除いて)確実に判定できるところにある。すなわち、ひたすら合理的かつ論理的に考えていればよいわけで、その点では決して迷うことがないのである。もちろん定義や定理の証明を理解するには相応の努力と根気が必要ではあるのだが。

 ところが、政治家が行っている判断、例えば「消費税率を増やすべきか否か」「海外の紛争解決のために軍隊を派遣すべきか否か」「愛人にマンションを買ってやるべきか否か」「多額の政治献金をしてくれる特定の団体や個人の利益のために動くべきか否か」などの問題に対しては、誰もが納得できる絶対的な正解が無いのである。正解の無い問題に立ち向かう政界の人は(ここは笑うところ)偉いと思う。ここで、「後半2つの問いに対しては絶対的な正解があるではないか。特定の少数のための利益誘導など言語道断」と思う方もいるかも知れない。しかし、その人に対しては逆に次のように問い返したい。
私は、西武ライオンズのファンです。
「利益誘導政治によって、少数ながらも誰かが物質的に得をして、あなたは不平等感によって精神的に損をしている。少数の人の利益よりも、あなたの損失の方が価値があると何故言い切れるのか」

  このことをもう少し理論的に論じてみよう。経済学に『パレート最適』という概念がある。これは、簡単に言うと「社会の任意の1人の満足度を挙げると、他の誰かが損をすることになる状態」のことである。もう少し簡単に説明するために、世の中に甲さんと乙さんの2人しかいないとする。甲さんは15万円の、乙さんは20万円の所得があるとする。仮に甲さんの所得が変わることなく乙さんの所得を30万円に増やすことができるならば、結局誰も損をせずに誰かが得をすることになる。このような改善を『パレート改善』という。要するに、パレート最適とは、パレート改善がそれ以上できないような状態をいう。つまり、甲さんの所得を減らさない限り、乙さんの所得を増やすことはできないのである。

 実は、経済学には次のような定理がある。

厚生経済学の第1基本定理 競争均衡はパレート最適である。

つまり、現代日本のような資本主義に基づく競争社会では、無駄に遊んでいる資源が無い状態が自動的に実現されているということである。証明はしかるべき理論経済学の書物を参照されたいが、証明抜きでも以下の文章の理解に全く支障をきたさない(注1)

 つまり、政治家は“資源配分”に関しては全く頭を悩ませる必要は無く、誰にどれだけ分配すべきか、という“所得分配”の問題に専念していればよいのである。ところがこれは難題である。「甲さんが15万円と乙さんが20万円」の状態と、「甲さんが20万円と乙さんが15万円」の状態のどちらが望ましいか、理論的に決定不可能と思われるからである。さすがに、一人だけが突出して儲けるような分配は好ましくないと思う人も多いであろう。しかし、少なくともその一人にとってはbestな状態なのである。このような少数意見を多数決によって排除する考え方は、 少数派差別の思想に繋がりかねず、少し危険ではなかろうか。よって、政治家がいかに不平等な判断を下そうとも、それが誰かの利益になっている限り、それだけで悪人呼ばわりされる筋合いはないのである。
ライオンズの黄金時代には、辻発彦選手が大好きだった。 
 先ほどから何度かプロ野球の話が出てきているが(注2)、政治家の活動と日本のプロ野球は似ているように思われる。人気のプロスポーツだけに、多くの日本人が贔屓チームの勝敗に一喜一憂し、負けた日の翌日は新聞のスポーツ欄から目を逸らし、勝った日の夜は各TV局のスポーツニュースをハシゴする。また、地元への利益誘導などに奔走する政治家を批判したりもする。しかし、よく考えれば、チームの勝敗など自分の生活に実質的な影響を与えないのである。同様に、一部の政治家や団体が陰で儲けていたとしても、それによって直接家計が脅かされはしないはずである。ある意味、プロ野球も政治も「どうでもいいこと」の部類に属するのだ。

 ところが、一般に、人は「どうでもいいこと」に熱中する傾向がある。プロ野球しかり、音楽などの芸術しかりである。「どうでもいいこと」に熱中できるから人間らしいとも言える。犬や猫には真似の出来ないことである。

 よって、政治家は非常に人間らしい職業であり、彼らはイチローや野茂などの偉大な野球選手と同等のヒーローである。彼らの給料が一部の野球選手より遥かに安いのは不当だとさえ思えてくる。これが賛美せずにはいられるだろうか(反語)。

§2 政治家 は不毛な努力を惜しまず、忍耐強い。

  さて、政治家は特殊な職業でありながら、資格や免許の類は全く不要である。この事実は、一見政治家の価値を貶めるように思えるが、事実は全く逆である。なぜなら、資格や免許は最低限の才能と血の滲む努力があれば必ず取得できるものだからである。難関と言われる公認会計士、司法試験、原動機付自転車等も例外ではない。また、大学教授などの研究者には免許と言うものはない(博士などの学位はそれに近いが)代わりに、自らの専門分野に関わる斬新な研究結果を論文にまとめて発表する努力によって、地位を得ることが可能である。つまり、これらの職業に就くには、定まった範囲の努力があれば足りるのだ。但しその努力が並大抵ではないことは屡々なのだが。

 一方、免許や資格を要求しない企業ほど、明るさ、社交性、誠実さ、判断力、ヴァイタリティなど、よく考えると定義が明確でない特性を要求する傾向がある。私自身を省みるに、これらは全て自分には十分に備わっていないものばかりである。現在私は一般企業に勤めている身であるが、よく今の会社に就職できたものだと思う。きっと会社には人を見る目が無いのであろう。

 選挙で当選して政治家になるには、これらの曖昧な特性を備える必要があるのみならず、人脈作り(いわゆるコネや地盤)も欠かせない。また、大抵の候補者は、政党に属するか、仮に無所属だとしても何らかの団体の後ろ盾がないと、余程のことが無い限り落選は目に見えている。そこで、政党における自分の地位を高めたり、支持団体に対して覚え目出度くしておく必要があるのだ。前述の通り、政治家は専門的能力で勝負をするわけではない(というより、専門知識のみでは多彩な政治課題に対応できないのは明らか)ので、ここで要求されるのは総合的な能力である。つまり、支持者に愛想よく接したり、組織の上の人たちへの気配りを欠かさずに行ったり、本音では思ってもいないようなことを大人数の前で演説したり、という、本来の政治の仕事とは直接関係の無いことを、面倒な顔一つせず行う能力も必要なのである。私には真似ができないことである。

 「英雄色を好む」ということばがある。これは恐らく、為政者の中でも特に英雄と呼ばれる人々は女性にもマメで、結果的にモテて、一見色を好む助平のように見えるという意味だと思っている。政治家は、程度の差こそあれ、このような特性を持った人々だと思っている(注3)。政治家が不倫などの女性問題を取り沙汰されることが時々ある。それがきっかけで、選挙で落選の憂き目を見た議員も過去にいたようだ。これは感情論としては理解できなくもないが、純粋に政治的な面から論ずるならば、選挙民は見る目無しと言わざるを得ない。不倫ができるような総合的能力を持つ者は、その力を政治にも活かせると期待できるからである。私など不倫など面倒でする気にもならない(まだ結婚していないが)。結婚すら面倒に思えるほどである(って洒落になってないが)。

 以上、この§2での結論は、政治家=助平=英雄=賛美対象ということである。余りにも褒めすぎて褒め殺しにならないか、一抹の不安がある。

エピローグ

 政治家を褒める根拠は以上に述べたもの以外にも存在するかもしれない。気付き次第随時追加するつもりである。

 私自身は、選挙権を持って以来、棄権したことはなく、必ず投票に出向いている。§1に述べたとおり、政治家は特定集団の利益のための存在(全国民の利益にはなり得ないことは既に論証した)である。それならば、できるだけ私の利益のために動いてくれそうな個人or政党に投票しないと損ではないか。とは言え、別に公約を裏切られても余り腹は立たない。その政治家は確かに私のためにはならなかったが、誰か他の人のためになる判断を下していることはほぼ確実なのだから。かように、私は極めて博愛的な人間なのである。

 だから、政治家にとりたてて要求することは殆ど無い。私が願うことはただ1つ、この文章のような自由な発言、自由行動ができる社会であり続けるようにして欲しい、ということだけである。

(本文終了)

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