島田荘司作品感想

『占星術殺人事件』『斜め屋敷の犯罪』『異邦の騎士』『眩暈』

『御手洗潔の挨拶』『水晶のピラミッド』『龍臥亭事件』『暗闇坂の人喰いの木』

『北の夕鶴2/3の殺人』『奇想、天を動かす』『最後のディナー』『ネジ式ザゼツキー』

『セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴』『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』『夏、19歳の肖像』


『占星術殺人事件』(講談社文庫)

 密室で殺された画家は奇妙な遺書を残していた。それは、6人の処女の肉体の各部分をつなぎ合わせ、新たな人体を合成するというもの。その後、6人の女性が行方不明になり、それぞれ遺体の一部を切断された形で日本各地に埋められているのが発見される…この謎に挑むのは、占星術師にして名探偵の御手洗潔。

 私は、有栖川有栖の学生編3部作をきっかけに現代日本の本格を読み始めたのですが、次に手を出したのがこの作品でした

 作品の最大の特徴は、何と言っても強烈なトリック。あと、シャーロックホームズを彷彿とさせる探偵の奇人ぶりも愉快です

 1981年の作品ですが、この時期までの日本のミステリは松本清張をはじめとする社会派が優勢で、いわゆる本格派は細々と命脈を繋いでいるような状態だったそうです。そこに颯爽と現れたのが本作。当時は賛否両論様々だったようですが、結果的にはこの作品がなければ、80年代後半以降の新本格(綾辻行人、有栖川有栖など、古典本格的な作風をもつ一派)の台頭も無かったかも知れず、歴史的にも重要な意味をもつ作品です。

 もっとも、島田氏のデビュー作ということで、様々なアイデアを詰め込んだ結果、中盤が若干冗長に感じられる向きもあるかも知れません。実はこれは私個人の感想なのですが、メイントリックはそんな不満を吹き飛ばす破壊力。実際、これをきっかけに、島田荘司作品を次々と読む羽目になったわけですから…

 しかも、前述の冗長さを欠点と思わない人にとっては、本作は得がたい大傑作になるでしょう。やはり島田荘司作品の中で、できる限り最初に読んでおきたい小説であることは確かです。


『斜め屋敷の犯罪』 (講談社文庫)

 北海道宗谷岬の高台に建つ、斜めに傾いた奇妙な邸。この邸の主人が開いたクリスマス・パーティで、連続密室殺人が起こる。この謎に挑むのは、またもや名探偵の御手洗潔。

 デビュー作『占星術殺人事件』同様、メイントリックは大仕掛け。しかし、本作の魅力はこれにとどまりません。

 まず、舞台を模した章立ての中、各人物の描写が非常に生き生きとしています。長編第2作ということで、作者の筆がより練達しているのでしょう。しかも所々喜劇的な要素が取り入れられ、名探偵御手洗潔は中盤以降に登場するにもかかわらず、読み手を飽きさせません。その御手洗の奇人ぶりはますます本作のユーモア度を強めます。

 解決場面での御手洗による謎解きは相変わらず鮮やかですが、この場面にはさりげない社会的メッセージが含まれていて、個人的にこの部分が一番好きです。後年、島田氏はより社会派色を強めた作品も発表しますが、本格好きとしては、本作程度のバランスが最も肌に合います。具体的には、探偵でも犯人でもないある人物の1ページ近くにも亘る長い台詞が私のツボにはまり、ちょっと泣けてきました。

 全体的にメインの謎と無関係の部分は少なく、この点ではデビュー作よりバランスが取れていると思います。私的には島田荘司作品の中では一番好き。何度も再読しました。


『異邦の騎士』( 講談社文庫)

 この作品に関しては、ストーリーや構成への言及を敢えて避けます。ただし、以下のことだけは書いておきたい。

 私自身、この作品には驚かされました。いつまでも心に残る作品です。


『眩暈』 (講談社文庫)

ぼくのまわりのなにもかもが、どくでよごれています。

 この特大文字の手記から、小説は始まる。読み進めるうち、この手記はある青年が幼い頃に記した文章らしいと推測できる。そして、精神が成長するにつれ、文字は小さくなり、食料汚染問題について熱い主張を始めるのだ。ある日、青年の目の前で殺人事件が起こる。直後、窓の外はあたかも世界の終焉を思わせるほどに一変し、町には恐竜らしき動物すら跋扈している… この謎に挑むのは、名探偵御手洗潔。

 「なぜ世界が一変したか?」という疑問自体は、手記に明快な手がかりが書かれているため、ある程度の知識があればすぐに解けるはず。しかし、それでも魅力的な謎は残ります。

 このように、本作の最大の魅力は、手記と、所々に挿入されたエピソードが提示する謎の幻想性でしょう。また、個人的には、犯人サイドの人物造形が極めて個性的なのも好みです。

 他の御手洗作品とは構成、トリックともに味わいが異なるので、好みは分かれるかもしれませんが、様々なアイデアが盛り込まれた力作であることは確か。私的には、島田作品の中で、『斜め屋敷の犯罪』に次ぐお気に入りです。


『御手洗潔の挨拶』 (講談社文庫)

「数字錠」
トリックの実現性や、島田荘司作品群全体における位置づけなどについて、様々な賛否両論を巻き起こした問題作。ある意味で、これを読まなければ島田荘司は語れない……かもしれません。私は素直に感動しました。
「疾走する死者」
 
島田荘司お得意の派手なトリックものです。

「紫電改研究保存会」
いきなりですが、この短編のメイントリックはコナン・ドイルのホームズものの某短編と全く同じです。私は事前にそれを知りつつ初読しましたが、それでも十分楽しめました。ホームズへのオマージュと言える作品ですが、単なる先駆者の模倣に留まらず、島田荘司の個性も十分に発揮された佳品。
「ギリシャの犬」
本格風味もサスペンス風味も兼ね備えた力作中篇。個人的には、作品の舞台である東京の川の描写は風情が伝わってきて良いと思います。

『水晶のピラミッド』 (講談社文庫)

 1994年に刊行された作品。この頃から、島田荘司の作風が目に見えて変貌していることは、多くの人が指摘している通りです。初期の『占星術殺人事件』や『斜め屋敷の犯罪』などの、古典的かつ大トリック 重視の 作風から、謎解き以外の社会派的主張や歴史的サイド・ストーリーの比重が高い作風へと転換しているのです。これには賛否両論があるようです。私自身、どちらかと言うと初期作品を好むものですが、冷静に考えると、時間の経過によって何も変わらない作家の方がむしろ不自然だとも言えます。というわけで、私は素直に、様々なタイプの作品が読めるのだから、島田荘司の作風が変化しても構わない、と思うことにしています。

 実際、本作でまず目を引くのは、前半に配された古代エジプトが舞台の恋物語と、かの客船「タイタニック」の沈没までの物語です。これらは、メインの謎解きと全く無関係とは言わないまでも、古典的な本格作品の基準によると、間違いなく不要な部分です。ところが、これら2つのサイド・ストーリーは驚くべき筆力で描かれている優れもの。これだけでも、本作に触れる価値は大いにあると思われます。

 それでは、メインのミステリ部分はどうかというと、これも島田氏ならではの大掛かりなもの。何しろエジプトの大ピラミッドを原寸大で再現したガラスのピラミッドが舞台なのですから。更に、詳しくは述べませんが、本作では島田氏の他作品に余り例を見ない仕掛けが用いられていて、本格ミステリファンには堪らないものがあります。

 とは言え、人によってはその仕掛けそのものに不満をもつ向きもあるでしょうし、女性キャラクタの松崎レオナ(個人的にはどうも好きになれない)の考え方に共感できるか否かも、作品の評価の分かれ目になるでしょう。ただし、万一これらの点で評価を差し引いたとしても、前述のサイド・ストーリーの魅力と、ハリウッド映画を彷彿とさせる構成の妙に触れる価値は大いにあると思われます。


『龍臥亭事件』 (光文社文庫)

 ミステリとしての筋を簡単に述べるならば、岡山県の山奥にある奇妙な構造の旅館“龍臥亭”で起きた連続殺人(密室も含む)を、名探偵御手洗潔の友人である石岡和巳が四苦八苦しながら解決する文庫版では上下2分冊の大長編ミステリです。しかし、本作はこのような紹介文では言い尽くせないほどの個性的な要素が詰め込まれています。以下、それをいくつか列挙します。

● 従来、ミステリで暗黙の了解とされるあるコード(慣例)を破っている
これだけだとネタばれにならないと思うので、あえて書きます。それだけ意欲的な作品であるということです。
● 犬坊里美という女子高生(当時)が初登場。以降、シリーズの準レギュラーに
『水晶のピラミッド』等に出てくる松崎レオナよりは個人的には好感が持てます。女子高生だし(謎)。
● 後半に登場する「津山30人殺し」のストーリーの迫力
文庫版では下巻の中程に、実話からのイマジネーションで書かれたと思われるルポルタージュ風のノベルが挿入されます。『水晶のピラミッド』1990年以降の島田作品で時折見られる特徴なのですが、この部分は読ませます。ど迫力。
● 建物の構造が変(この作品にはじまったことではないが)
舞台となる旅館“龍臥亭”の構造が面白い。これがトリックにどう関わってくるかは乞うご期待。
● これ以前の様々な島田荘司作品を予習しておくべし
作者の意図を100パーセント汲み取るには、御手洗シリーズに限らず、様々な島田荘司作品が既読であることが望ましい。

もちろん、初期からの島荘本格の特徴である大胆なトリックも健在です。


『暗闇坂の人喰いの木』 (講談社文庫)

 江戸時代の刑場として知られる横浜・くらやみ坂(ちなみにここまでは実話で以降はフィクション)の藤並邸には樹齢2000年の大楠があり、この巨木は、戦時中以来、人を喰うと言い伝えられてきた。ある日、藤並家の長男が邸の屋根の上に座った姿勢の死体となって発見された。

 御手洗潔シリーズ長編の第4作です。執筆順では、『異邦の騎士』『占星術殺人事件』『斜め屋敷の犯罪』に次ぐわけですが、前作から長いブランクを経て、1990年に刊行されました。この作品以降、御手洗作品の様子が少し変わってきます。具体的には、まず第1に分厚くなったこと。第2に、異なる場所や日時に生じた謎を随所にエピソード風に挿入する手法を多用しはじめたこと。最後に、御手洗、石岡以外のレギュラーである松崎レオナが登場しはじめたことです。以上のような変化があるとはいえ、島荘特有の大トリックは相変わらず健在です。

 個人的には、余り好みではないかもしれません。第1の理由は、女性キャラクター松崎レオナが余り好みではないこと。第2の理由は(ネタバレを恐れて曖昧な書き方をしますが)『占星術殺人事件』がいまひとつ私の好みに合わないことです。本作と『占星術〜』の共通点といえば……ご想像にお任せします。

 とは言え、途中に挿入される死刑史に関する蘊蓄は非常に面白いですし、随所に挿入されるエピソードの怪奇趣味の迫力も満点。ですから中盤までは十分に楽しめました。あとは解決部分を好むか好まざるかによって賛否が分かれるのかも知れません。


『北の夕鶴2/3の殺人』 (光文社文庫)

 1985年に刊行された本作は、吉敷竹史刑事シリーズの一作。『奇想、天を動かす』と共に、シリーズ代表作と目されています。

 ここで、「吉敷シリーズ」の位置づけについて、少々論じておきます。今更いうまでもなく島田荘司のデビュー作は、御手洗潔を探偵役とする『占星術殺人事件』。大胆なトリックと“読者への挑戦”を含み、当時のミステリファンを唸らせた歴史的作品でもありました。しかし、エキセントリックな探偵を主人公とするガチガチの本格ミステリである御手洗シリーズは、決して一般大衆に受け入れられたわけではなかったのです。プロの作家として作品を刊行し続けるには、水準以上の冊数を売り上げることは必須。そこで、御手洗よりは遥かに“日本の常識”に則った吉敷竹史を主人公に配し、当時人気が高かったトラベルミステリの要素を取り入れたシリーズが書き始められたのです。

 本作『北の夕鶴2/3の殺人』はシリーズ3作目。前半は、寝台特急「ゆうづる」(今はもうない!)車内での殺人事件を扱うなど、まさにトラベルミステリ風味。しかし、中盤、釧路の「三ツ矢マンション」での事件発生以降は、様相が一変し、島田荘司らしさが爆発します。被害者が出入りできないはずの殺人現場、写真に写り込んだ鎧武者、夜鳴き石の音…。このように、御手洗シリーズ張りの不可能興味満載です。メイントリックも豪快そのもの(豪快過ぎるという説も)。

 このように、社会派トラベルミステリの形式を取りながら、本格ミステリとしても読み応えがあるという点で、本作は高く評価されていると思われます。また、中盤以降のサスペンスも見事。探偵が常識人だけに、アクロバティックな解決が見られないのを物足りなく感じる方も居そうですが、探偵の個性と割り切れば仕方の無いところでしょうか。

 なお、本作で登場する吉敷刑事を取り巻く人間関係は、後年のいくつかの島田荘司作品において重要な骨格になっていきます。中でも、『龍臥亭事件』や『涙流れるままに』を読むには、あらかじめ本作を読んでの“予習”が必須と言えるでしょう。その意味でも、重要な作品なのです。


『奇想、天を動かす』 (光文社文庫)

 1989年に刊行された本作は、吉敷竹史刑事シリーズの一作。『北の夕鶴2/3の殺人』と共に、シリーズ代表作と目されています。

 一見、消費税が原因の衝動殺人と思われる事件が発生。しかし、犯人の老人に興味を抱いた吉敷竹史刑事の辛抱強い捜査により、30年前の札沼線での事件が浮かび上がってくる。この捜査過程は、まさに社会派警察ミステリそのもので、その種の小説が好きな人にも楽しめるでしょう。トラベルミステリとしての側面も持ち合わせています。

 しかし、本作の最大の特徴はそれではありません。

 札沼線の事件は、老人による稚拙な文章の小説の形で読者に提示されます。これは、島田氏が『本格ミステリー宣言』の中で提唱した本格の定義のひとつ“謎の幻想的な提示”を実作で実践したものとみることができるでしょう。その試みは、本作では見事に成功していると思います。

 そして、明かされる事件のスケールやトリックは、御手洗潔シリーズばりの大掛かりなもの。本作を語るときに“本格と社会派が高レベルで融合した稀有なる作品”と賞賛されることが多いのですが、私も同様な評価を下しておきましょう。

 島田氏の社会的メッセージが色濃く滲み出た作品でもあります。その主張に首肯できるかどうかで評価は多少変わってくるかも知れません。また、吉敷は御手洗潔とは違い超人的な雰囲気は持ち合わせていないので、事件解明のプロセスが好みに合わない可能性もあります。が、それ以外の点では文句のつけようの無い出来ではないでしょうか?

 なお、本作はシリーズ他作品との繋がりは薄いので、初めて読む吉敷ものとしても、十分にお勧めできると思われます。


『最後のディナー』 (角川文庫)

 御手洗シリーズの中短編集。とは言え、御手洗潔は既に外国に渡ってしまったので、メインキャラはワトソン役の石岡和巳と、『龍臥亭事件』で石岡と親しくなった女子大生の犬坊里美。『龍臥亭事件』は未読でも大丈夫でしょうが、初期の長編『異邦の騎士』は読んでおくべきだと思われます。そして、『異邦の騎士』を十分に楽しむには御手洗シリーズの幾つかの作品の読了が必須であることを考えると、やはりシリーズ常連読者のための作品集だと言えると思います。

 御手洗潔が登場するのは、電話を通じての推理のみ。ですから、収録3作品全体に通じるテーマは、40代になった石岡和巳の憂鬱(?)だと言えるかも知れません。各作品について、簡潔な感想を。

「里美上京」
この作品はミステリでも何でもなく、犬坊里美が横浜の女子大に入学するため岡山から上京してきたことの説明に過ぎません。それでも、シリーズを通して読んできた読者にとってはちょっとした感慨があります。個人的なことですが、私は横浜に住んでいた時期が長いので、本作に描かれる横浜の情景や変遷の描写を気に入っています。
「大根奇聞」
幕末の薩摩で、藩が管理する大根を盗んだ老齢の女性が逮捕されなかったのは何故か? をテーマにした一種の歴史ミステリ。結末の切れ味は集中随一。
「最後のディナー」
現在は角川文庫で読める本書ですが、原書房の単行本の初版は1999年。当時、新刊で購入しました。私にしては珍しいこと。購入の直接の動機は、本の装丁がとても綺麗だったことです。表題作「最後のディナー」は、内容的にみても、美麗な装丁にピタリとはまっていました。英会話学校に通い始めた石岡と里美。そこで出会った孤独な老人、大田原智恵蔵との交流にまつわるミステリ。彼の悲しくもひたむきな生き様や、クリスマスイブの横浜の情景の美しさが心に残ります。

『ネジ式ザゼツキー』 (講談社ノベルズ)

 2003年、講談社ノベルズに書き下ろされた御手洗潔シリーズの長編。とは言え、御手洗はスウェーデンで脳科学者として活躍中という設定。だから、日本で石岡和巳と共に居た頃とは、なんとなく人物造形が異なっているように思えます。御手洗潔も、今や50代。登場人物が作家と共に年齢を重ねるシリーズなので、この変化はむしろ自然なのかも知れません。

 1ページ目を開いて、まず驚くのは、文章の大半が横書きで書かれていること。読み進めていけば、理由が判ります。私はてっきり横書きならではの叙述トリックがあるのか、と身構えてしまいましたが、そうではありませんでした。

 粗筋を簡潔に書きます。記憶を一部を失った男が書いた幻想小説「タンジール蜜柑共和国への帰還」には、天を衝くような高い蜜柑の木の上に作られた村、身体がネジ式構造になっている空飛ぶ妖精、人工筋肉で羽ばたく飛行機などが描かれていました。御手洗は、このような奇妙な童話から、過去に起こった殺人事件の存在をつきとめ、更にその事件をも解決していきます。

 冒頭に書いたような御手洗本人の造形の変化はあるものの、内容的にはとても御手洗シリーズらしい作品だな、というのが一読後の感想でした。奇妙な手記に隠された真相を探り出す、というのは、『占星術殺人事件』や『眩暈』に共通するシリーズのお家芸。殊に、本作は『眩暈』に似ている面が多いようです。『眩暈』は好きな作品だけに、どうしても比べてしまいます。『眩暈』での推理は割と良く知られた事実を論拠にしていた一方で、『ネジ式ザゼツキー』の方はややマニアックな(?)知識に依拠している感があり、個人的にはやや不満。また、後半で解決される事件の仕掛けも、『眩暈』に比べればややスケールが小さいのですが、それは裏を返せば物語構造が明快でわかりやすいということ。結末はスッキリしていますし、物語としても読み応えがあります。

 初の御手洗作品であるデビュー作が世に出てから22年。未だにこれほどの水準の作品が書かれていることは、驚きでもあり、ファンとしては嬉しい限りです。


『セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴』 (講談社ノベルズ)

 島田荘司氏には、クリスマスに因んだ内容の重要な作品がいくつかあります。重要な短編「数字錠」(『御手洗潔の挨拶』所収)や、『最後のディナー』が該当します。これらは、もちろん本格ミステリではあるのですが、どちらかというと人物描写や心温まるエピソードといったミステリ以外の要素が好評を得た作品でした。本作『セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴』も、一応その系統に連なる作品です。とは言え、『最後のディナー』のメイン要素が人物描写であり御手洗潔の登場は電話のみであったのと比べると、本作はかなり本格ミステリ寄りになっています。以下、もう少しだけ細かい感想を。

シアルヴィ館のクリスマス

 冒頭に配された30ページ程度の短編。舞台は現代。御手洗潔はスウェーデンに居て、同僚の学者たちと衒学的なサンタクロース談義を繰り広げています。ミステリではなく、本編の導入のための序章のような位置づけですが、これはこれで面白く読めました。殊に、ロマノフ王朝のエカテリーナ2世に関する薀蓄が興味深い。

セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴

 本書の本編にあたる本格ミステリ。時代設定は1987年で、『占星術殺人事件』を解決した直後。若々しい御手洗潔の活躍を堪能できます。内容や構成面にも、初期御手洗ものらしさが満載です。通りがかりの老婦人がもちこんだ友人の奇行話の中のちょっとした情報から大事件の存在を言い当ててしまうところなど、シャーロック・ホームズ以来のミステリの王道そのもの。御手洗長編らしい大掛かりなトリックもあります。また、本作のメインアイテム「ダイヤモンドの靴」の隠し場所に関する御手洗の推理のロジックは冴えています。

 クリスマスシリーズならではの人物描写に関していえば、薄幸の少女に対する御手洗の優しさはGood. ただ、あくまでも個人的にですが、人間ドラマとしては前作『最後のディナー』の方が好みです。ミステリとしてはこちらの方が上。よって、同程度の評価となりました。


『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』 (光文社文庫)

 最初に、本題からやや外れた雑談を書くことをお許しください。

 コナン・ドイルが著したシャーロックホームズものの小説を読んでいると、「これを書いているときのドイルには神が乗り移っていたのではないか」と思うことがあります。多くの翻訳ものミステリには、翻訳ならではの読みにくさを感じることがあるのですが(クイーンやクリスティも例外ではない)、ホームズ作品には全くそれがなく、しかも読後忘れ難い印象を残す名品が多いのです。

 一方、ドイル没後、多くの作家がホームズ・パスティーシュまたはパロディを書いていて、私もいくつか読んでいるのですが、小説としての総合的魅力でドイルのオリジナルに比肩し得る作品は皆無に近いと感じています。特に海外の作品だと、文化的な違いによる分かり難さが読書の障害になることが多く(オリジナルではそんなこと無いのに)、結果的にストーリーが長く心に残らない、というケースが多いのです。

 さて、島田荘司の筆による『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』について。19世紀最後の年である1900年にロンドンに留学した文豪・夏目漱石(これは史実)と、架空の人物であるシャーロックホームズが出会っていた、という奇抜な発想で書かれた本格ミステリ。日本人によって書かれた貴重なホームズ・パスティーシュでもあります。ドイルのオリジナルに勝るとも劣らない完成度に驚嘆しました。

 もう少し具体的に書くと、事件の謎そのものはいかにも初期の島田荘司風。一方、解決へのプロセスは、まさにシャーロック・ホームズ風。序盤のホームズの人物像がオリジナルと異なるのも興味深く、かつ愉快。ラスト近くで、島田氏の文明観が適度に語られているのも良かったです。

 オリジナルのホームズ作品と、初期の島田荘司作品の両者の面白さが見事に融合した、日本ミステリ史に残る名パスティーシュだと確信しています。


『夏、19歳の肖像 (新装版)』 (文春文庫)

 『夏、19歳の肖像』は、1988年に書かれたノン・シリーズ長編ミステリ。しばらく書店から姿を消していましたが、2005年に著者自身が文章に手を加えた新装版が刊行されました。

 19歳のバイク好きの青年を主人公とする青春ミステリ。バイクの事故で入院中、病院の窓から見える「谷間の家」に住む美しい女性に恋をした主人公は、女性が父親らしき人物に殴られたり、大きな袋を病院の工事現場に埋める場面を目撃。退院後、青年は真相を明らかにするため(同時に自らの恋を打ち明けるため)、女性に接近していきます。

 若者を主人公とする恋愛ミステリと言えば、島田荘司氏には本作以外に『異邦の騎士』という衝撃作があります。ほぼ同時期に書かれた両作品は比較されることが多いようです。私の感想としては、本格ミステリとしての仕掛けの大胆さは『異邦の騎士』の方が上。『夏、19歳の肖像』の方はミステリ的にも構成的にも全体の文字数的にもアッサリしていて、やや物足りないという意見もあるでしょうが、その分読みやすいとも言えるでしょう。

 更に、恋愛ミステリとして両作を比べてみます。結末が悲劇的なことは共通していますが、悲劇の性質は大分異なります(詳述はしません)。『異邦の騎士』は事件の哀しさにもかかわらず名探偵御手洗潔のキャラクターに因る“救い”が感じられる読後感でした。一方、ノン・シリーズの『夏・19歳の肖像』のラストには救いが感じられませんでしたが、主人公の青臭さや無鉄砲さには共感できます。

 やや乱暴にまとめるなら、ファンタジー要素が強い『異邦の騎士』に対し、リアリティ重視の『夏、19歳の肖像』という感じでしょうか。いずれも、青春ミステリの秀作だと思います。