日本のミステリの礎を築いた江戸川乱歩(1894-1965)は、海外本格ミステリの最良の紹介者であると共に、独自の世界観と卓越した文章力を兼ね備えた希代の小説家でもあった。

江戸川乱歩作品リスト

創元日本探偵小説全集2『江戸川乱歩集』『孤島の鬼』(創元)

『D坂の殺人事件』(創元)『人間椅子』(春陽)

『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(創元推理文庫)

 江戸川乱歩(1894-1965)は、現在、多様な角度から評価されている人物だと思います。時にはミステリ(探偵小説)というジャンルを大衆に広めた功労者として、時には米英のいわゆる本格ミステリ黄金期の名作を本邦に多数紹介した名書評家として、高く評価されています。ある程度以上の世代の方々──具体的にはポプラ社の少年向け乱歩作品集に触れた方々──には、明智小五郎や怪人二十面相の生みの親としての印象が深いかも知れません。

 このように、乱歩が日本のミステリ史の中で一際光り輝く巨人となり得た原動力とは何だったのでしょうか。私見ですが、そこには3つの重要な要因があると考えます。

 1つ目は、ミステリというジャンルに対する乱歩の誠実な愛情です。例えば第2次世界大戦後間も無い頃、ウィリアム・アイリッシュの代表作『幻の女』の原書を書店で見つけた乱歩が、何と知人に売約済みの商品だったにも拘わらず、店主を無理やり言いくるめて強奪するように購入したエピソードは有名。その後の乱歩の推薦により、『幻の女』は名作として日本に定着しました。ミステリファンとして、そんな真摯な情熱に胸打たれるのです。

 2つ目は、文庫解説の中井英夫の言を借りるならば、まさに“異次元世界の王”として、異形な世界への憧れを描き続けた独自の世界観が作品を鮮やかに彩っていることです。乱歩自身のことば「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」は、彼自身の小説の魅力を端的かつ的確に表現しています。既に述べた通り、謎解き本格ミステリの良き理解者であり紹介者でもあった乱歩ですが、彼の個性が強く現れているのは、実はガチガチの本格では無い作品だというのが私の考えです。

 3つめは、(ある意味でこれが最重要な要素だと思うのですが)読み手を物語世界に引きずり込むための文章力が極めて高かったと思われることです。とても読みやすいのです。もう一人の巨人である横溝正史にも共通する美点です。

 以上の様な乱歩の個性を大いに発揮する作品を集めたのが、今回紹介する創元推理文庫の全集です。収録作品は次の通り。

「二銭銅貨」 「心理試験」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「鏡地獄」「パノラマ島奇談」「陰獣」「芋虫」「押絵と旅する男」「目羅博士」「化人幻戯」「堀越捜査一課長殿」

 個人的には、乱歩の異形趣味が色濃く発揮された「人間椅子」「パノラマ島奇談」「芋虫」が好みですが、世間一般では「陰獣」「押絵と旅する男」の人気も高いと思われます。いずれ劣らぬ佳作揃い。乱歩を知るにはまずはこの一冊、というところでしょうか。


『孤島の鬼』 (創元推理文庫)

 主人公の蓑浦の恋人である木崎初代は、何者かに密室の中で殺されてしまう。蓑浦は名探偵である友人の深山木に調査を依頼するが、その深山木も衆人環視の中で殺されて…

 1930年に書かれた江戸川乱歩の長編代表作です。上に書いた2つの殺人事件に限れば、実は物語の前半で解決されてしまいます。いずれの事件でも工夫を凝らしたトリックが用いられ、本格ミステリとしてはそれだけで高評価できます。しかしながら、本作の凄いところは、中盤以降、さらにそれ以上の魅力が読者を待ち受けていることにあります。サスペンスの盛り上げ方、事件の全貌のすさまじさなどは、まさに乱歩の個性が存分に発揮されています。純愛小説としても読めたりします。

 中盤のある部分以降、序盤からは想像も付かないような方向へ物語は急展開します。初読時の私は、この部分を読んで衝撃を受けました。既読の方にはどの部分を指しているかお分かりでしょう。私はミステリを結構たくさん読んでいますが、それでもここまでゾクゾクさせられることは滅多にありません。

 文庫解説の中井英夫氏は本作を『世界最高のミステリ』と評価していたようです。確かに、そう考えても全然不思議ではないほどの傑作だと思います。私自身、今まで読んだ乱歩の全作品中、これが一番大好きです。


『D坂の殺人事件』(創元推理文庫)

 江戸川乱歩の短編小説代表作を集めた作品集。創元日本探偵小説全集2との重複は勿論ありません。収録作品は以下の通り。

「二癈人」「D坂の殺人事件」「赤い部屋」「白昼夢」「毒草」「火星の運河」「お勢登場」「虫」「石榴」「防空壕」

 日本での本格推理小説発展の大功労者である江戸川乱歩は、実作者としては必ずしも本格一辺倒の人ではなかったと思われます。例えば、収録作品のうち「D坂の殺人事件」や「石榴」などは本格色が強い一方、他の作品は必ずしもそうではありません。乱歩本人は自らの作品群を“本格”“変格”と分けていましたが、この言葉遣いでは、非本格作品が本格に比べて格下であるような印象を与えかねません。誤解を恐れずにいうと、こと乱歩に限っては“本格”よりも“変格”の方が面白い作品が多いと思います。その理由を考えるに、乱歩“本格”に登場する題材(密室、1人2役、暗号etc.)は既に海外古典に模範作品があり(クオリティに目をつぶれば)他の推理作家にでも書くことができるのに対し、乱歩“変格”は他の作家には決して書き得ないように思われるからです。

 集中、私がいちばん好きな作品は「虫(蟲)」です。登場する主人公を「異常」の一言で片づけてしまうことはたやすいですが、それでは小説の真の魅力に迫れないでしょう。極端な変態的欲望を描く執拗な筆致の奥には、誰しもが持つ普遍的な感情(不屈の精神、努力する心、人を愛する心、劣等感、絶望感…)の有り様が見事に描かれています。

 第2次世界大戦後に書かれた「防空壕」も好きな作品です。ある意味では戦争文学ですが、非常時ゆえに剥き出しにされる「人間らしさ」(と敢えて書いておこう)が印象深いのです。人間の営みの側面を切り取るのが短編小説の役割だとすれば、乱歩は紛れも無く短編小説の名手(推理小説の、ではない)だったと思うのです。


『人間椅子』(春陽文庫)

 江戸川乱歩作品は色々な出版社で読めます。2004年現在、光文社文庫の全集が次々と刊行されているところ。他に、創元推理文庫も諸作品を網羅的に収録していますし、いくつかの代表作は角川ホラー文庫にも入っています。

 その中でも、春陽文庫(春陽堂書店)の江戸川乱歩文庫はひときわ異彩を放っています。まずは、電車の中では到底カバー無しには読めないほどの表紙装丁の凄さ。解説が無い質実剛健さ。

 本書・春陽版『人間椅子』を私が購入したのは1994年頃。次の短編が収録されています。

「人間椅子」「お勢登場」「毒草」「双生児」「夢遊病者の死」「灰神楽」「木馬は回る」「指環」「幽霊」「人でなしの恋」

 上で感想を書いた創元版『D坂の殺人事件』などと収録作品が被っています。では、何故購入したかと言えば、1994年当時、「人でなしの恋」が手軽に読める手段が本書しか無かったからです。「人でなしの恋」は、新婚の夫の隠された性癖に悩む妻の話──えらく陳腐な紹介文で、作品の魅力が全く伝わっていませんが、ネタバレ無しということでご容赦を──で、異形の世界を好む乱歩の個性がよく発揮された作品。どちらかと言うと女性に好まれる作品かも。映画化もされました。

 標題作の「人間椅子」も乱歩ならではの異形趣味が良く発揮されていると同時に、ミステリとしても秀逸。トリックは後世の作品に大きな影響を与えています。万人が認め得る乱歩短編の代表作のひとつ。

 さて、収録作のひとつ「木馬は回る」は、客観的に見れば地味な超短編で、おそらく乱歩作品の人気投票では決して上位に来ないでしょう。私自身、本書を手に取るまで存在すら知りませんでした。でも、結果的に私が最も気に入ってしまった作品はこれ。それどころか、乱歩の全短編の中でベストに挙げます。「木馬は回る」は決してミステリとして優れているわけではなく、乱歩独特のエログロ趣味も皆無なのですが、とにかく普通の小説として味わい深いのです。主人公は公園の木馬館のラッパ吹き、格二郎。ガタゴト回る木馬の音と侘しげなラッパの音色と共に、初老にさしかかった彼の悲哀が胸を打ちます。

 乱歩が、大仕掛けに頼らない「木馬は回る」のような小説を残しているという事実に、ジャンルの枠を超えた文筆家としての乱歩の凄さを感じるのです。最後に、本編から少し引用して、本書の感想を締めます。

……いつのまにやら、お客様といっしょになって、木馬の首を振るとおりに楽隊を合わせ、無我夢中でメリー、ゴー、メリー、ゴー、ラウンドと、彼らの心も回るのだ。回れ回れ、時計の針のように、絶えまもなく、おまえが回っている間は、貧乏のことも、古い女房のことも、鼻たれ小僧の泣き声も、南京米のお弁当のことも、うめぼし一つのお菜のことも、いっさいがっさい忘れている。この世は楽しい木馬の世界だ。……

【追記】 「木馬は回る」は春陽版でのタイトルですが、「木馬は廻る」となっている版の方が多いかも知れません。現在、春陽文庫以外で「木馬が廻る」が読める本としては、『人でなしの恋』(創元推理文庫の乱歩作品集12)、『暗黒星』(角川ホラー文庫)などがあります。