正統派ミステリであり、端正な文体による人物描写も魅力

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『慟哭』 『プリズム』

『慟哭』
創元推理文庫
私的満足度 7(満点は10)
人は耐え難い悲しみに慟哭する。そして本作は技巧派ミステリでもある。

 1993年に発表された貫井徳郎のデビュー作です。
  上に書いた「人は耐え難い悲しみに慟哭する」は、本作の文庫版の帯に書かれていた台詞です。本作の特徴の1つをよく表しています(ただし、現在売られているものは別の言葉になっていると思いますが)。
 この小説は、続発する連続幼女誘拐事件の捜査の進行をメインストーリーに、怪しげな黒魔術を行う新興宗教の実体をサブストーリーに配することにより、現代の家族のあり方や人間の内奥の痛みを描くことが一つのテーマになっています。端正な貫井氏の文体によって、捜査に行き詰まるに警視庁捜査一課長の苦悩や、宗教にのめり込むことで破滅へと転落していく男の葛藤などが生々しく伝わってきます。まさに「人は耐え難い悲しみに慟哭する」の帯に偽りなし、といったところでしょう。

 しかしながら、本作はあくまでも本格ミステリで、しかも十分に技巧を凝らした作品であることを忘れてはなりません。嬉しいことに、真相への手がかりは途中の随所にしっかり書かれています。実はこの『慟哭』は、私が解決場面に至る前に真相を看破できた数少ない作品の1つなのです。そのため、作品への個人的好感度は結構高いのです。

#追記:ミステリ的にはどうでも良いことですが、この作品が刊行された1年後に例の「地下鉄サリン事件」が起こったのですね。ですから、本書の途中に書かれている新興宗教に対する世間一般での認識は、現在のそれとは少しずれているように思います。まあ、執筆当時はあのような事件が実際に起こるとは想像すらできなかったでしょうから、仕方のないことではあります。

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『プリズム』
創元推理文庫
私的満足度 8(満点は10)
多重解決ミステリの面白さと、リアルな人物描写を追及した佳作。

 若き女性教師・山浦美津子が鈍器様の物で頭を強打された遺体となって発見された。傍らには凶器と思しき時計。そして机には睡眠薬入りチョコレート。彼女を取り巻く様々な人々が事件解決のための探索に乗り出していく。

 本作は、名探偵が登場し最終章で唯一無二の真相を語るような類いのミステリではなく、様々な人々が独自に事件の捜査に乗り出し、独自の解決に辿り着くという、いわゆる多重解決ミステリです。ですから、読者は提示された複数の解決を見比べて評価したり、或いは読者オリジナルの解決編を紡ぎ出すような楽しみもあるわけです。この種のミステリ作品の元祖と呼ばれるのはバークリー『毒入りチョコレート事件』でしょう。『毒チョコ』は私の大好きな作品で、私的海外ミステリのオールタイムbest1に位置づけています。本作は明らかに『毒チョコ』を意識しながら、先行作品とは異なる魅力を兼ね備えた作品に仕上がっています。

 本作独自の魅力とは、ズバリ人物描写の精緻さと多面性だと思うのです。例えば、第1章は死んだ女性教師のクラスの男子生徒の視点で書かれますが、そこに描かれた被害者像は概ね“子供の視線で行動する物分かりのよい人気教師”というものです。仮に小説の最後までこの設定だと些か鼻白むのですが、決してそうはなっていません。章が進むに連れ、他の人にとって被害者の存在は全く別の意味を持っていたことなどが明かされます。実際、多くの人は接する相手に応じて様々な顔を使い分けている筈であり、その意味ではとてもリアルな人物描写と言えるでしょう。

 個人的には、やはり元祖である『毒チョコ』が一番、という思いはあります(ちなみに、『毒チョコ』にあって本作に無い要素はユーモアかと思います)。とは言え、本作は、日本で生まれた意欲的な作品として評価すべきではないかと思います。相変わらず端正で読みやすい文体も魅力です。

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