西尾維新作品リスト(随時追加します)

『きみとぼくの壊れた世界』『クビキリサイクル』


『きみとぼくの壊れた世界』(講談社ノベルズ)

 西尾維新(1981〜)は2001年、『クビキリサイクル』で第23回メフィスト賞を受賞してデビュー。『きみとぼくの壊れた世界』は、2003年に雑誌「メフィスト」に“犯人当てクイズ”として問題編が掲載されて絶賛を浴び、解決編を含む完全版がノベルズとして刊行されました。

 私は現時点(2004年)でこの世代の作家のミステリを殆ど読んでいませんが、西尾維新という人だけは、やたら存在が気になります。理由は、書店での扱いを見る限り結構売れていると思われること。そしてWeb上に既に多数のファンサイトが存在していると思われること。

 そんなに凄い作家なのか?

 そこで、書店に多数平積みされている作品群の中で、最も美しい響きの題名を持つ『きみとぼくの壊れた世界』を購入したという次第。ゆえに、本作が、私にとって初の西尾作品と言うことになります。

 主人公は高校3年の櫃内様刻で、同じ高校に通う妹・夜月とは近親相姦寸前の関係という設定に目を奪われます。主人公を取り巻く他のキャラも実に個性的。様刻の同級生キャラである迎槻箱彦や琴原りりすのネーミングセンスも結構ぶっ飛んでいると思うのですが、極めつけは、保健室登校の天才少女・病院坂黒猫。名前だけでなくキャラの立ち方も尋常では無いです。彼女がノベルズのカバー表紙を飾るのも頷けるというもの。

 人物や学園の設定は結構非現実的なのですが、そもそも、ミステリとは決してリアリズム追求を目的とした文学では無いのです。むしろ逆。犯人当てを例にとってみても、作中の手掛かりだけでは、数学の計算問題を解くような唯一無二の正解に辿り着けるはずはないのです。何らかの非現実的な縛りがあって、はじめてパズラーとしてのミステリが成立すると思うのです。古典本格ミステリの世界では、それは外部との連絡が途絶する孤島だったりします。西澤保彦氏のようにSF的な縛りをかけた本格作品を書く人も居ます。そして、西尾維新氏の場合、その縛りとは、まさにゲーム的もしくはライトノベル的世界観なのではないでしょうか?

 本作の具体的な内容に少し触れます。作品の世界観の提示やキャラ紹介を兼ねた「もんだい編」は見事な出来だと思いました。既に述べた通り、各キャラは楽しく書き分けられ、本作独特の世界観も違和感無く伝わってきます。所々にミステリに関する薀蓄が散りばめられているのもGood。「もんだい編」のラストで発生する事件に関しても、「魅力ある謎」の提示に十分成功していると思われます。

 その後、「たんてい編」では主人公と病院坂による捜査が描かれ、「かいとう編」では真相が明かされます。真相解明のための手掛かりは「もんだい編」で十分に提示されていますし、解決のロジックにも落ち度が無いと思います。長編ミステリとしては小粒かも知れませんが、質的に見れば文句無し。本格ミステリとして十分に及第点以上。

 ただ、「たんてい編」以降では、地の文での主人公の語りがやたら饒舌になってしまい、読み進めるのが一寸辛くなってしまいました。ここまで語らなくてもイイタイコトは読者に伝わるのでは? 少し調べてみたところ、どうやらこれが西尾作品の個性の一つだとか。ミステリの本筋から少し離れたこの要素を楽しめるか否かが、ファンになれるか否かの分かれ目ということになりそうです。というわけで、他の西尾作品に手を出すか否か迷っているところなのです(2004年2月現在)。


『クビキリサイクル』(講談社ノベルズ)

 西尾維新(1981〜)のデビュー作。2001年の第23回メフィスト賞を受賞しました。

 この世代のミステリ作家の中では最もよく売れている人だと思われますが、長い間、私は手を出しませんでした。理由は、ノベルズの表紙デザインがいかにもライトノベル的な絵であったことから、ミステリ的に“軽い”のではないか、との先入観を抱いていたからです。

 しかし、そんな不安が杞憂であったことが、実際に一読して判りました。ある事情から警察力が介入できない孤島での殺人事件、密室状態、首切り死体、時間的不可能犯罪、…このように、古典的ミステリに欠かせないアイテムが存分に散りばめられています。しかも、事件解明への伏線は十分に書き込まれているなど、物語の骨格は本格ミステリの要件を満たしています。

 ところが、Web上での西尾作品の感想を色々調べてみたところ、「何故西尾維新は作品中にミステリ要素を取り入れるのか疑問だった (趣意)」と書かれているpageを見つけ、ビックリしました。これは、基本的にエンターテイメント小説もしくはライトノベルとして捉えて読んでいる人が存在するという証拠。私の読み方とは方向性が正反対です。確かに、この小説の登場人物は、皆十分過ぎるほど漫画的かつライトノベル的に突き抜けているので、エンタメ重視の方々はその辺りに魅力を感じるのでしょう。

 冷静に考えると、私のように本格ミステリ萌えな人の数って、世間的にはきっと少数派なのでしょう。あとから気づきましたが、本のカバーや帯には、一言も「本格」というコトバも、「ミステリ」というコトバすらも入っていないのです。そのかわり「新青春エンタ」と呼ばれています。その方が商業的に有利さからでしょうか。個人的には寂しく思います。そこで、敢えて強調しておきます。

 この作品は基本的に本格ミステリの佳作だと思います。

 多少減点入っているのは、後半、“戯言使い”である語り手の心象描写が若干読み辛く感じたことと、トリックにごくごく些細な無理を感じたことに因りますが、恐らくこれらは好みの問題に過ぎません。

 ところで、以下は私自身の“戯言”です。本作を読了したとき、私が真っ先に連想した先人の作品は、いわゆる“新本格派”の旗手の1人であった有栖川有栖氏の『月光ゲーム』でした。こんなことを思った人間は日本中で私一人かも、と思います。「何で?クローズドサークル以外共通点無いじゃない!」と思われる方も多いと思いますが、実は共通点があると思います。まず、いずれも隙の無い伏線が張られた本格ミステリであることがひとつ。もうひとつは、いずれも“本格であること”以外のアピールポイントを持っていること。具体的には『月光ゲーム』が80年代の青春小説としても読める一方、『クビキリサイクル』は90年代以降のライトノベル的青春小説の顔を持っています。“新青春エンタ”という呼び名は、ひょっとすると“新本格”に続くミステリの潮流を作り出そうという試みだったのかも知れません。今後の西尾氏の活躍如何では現実にそうなる可能性もあります。

 なお、森博嗣の『すべてがFになる』との類似性を指摘する意見はよく見かけます。ぶっ飛んだ天才が登場する辺りは、確かに似ています。ただ、個人的には一連の森作品よりも『クビキリサイクル』の方が、むしろ古典本格に近い性質を持っているのではないかと思っています。